「再来と却来」― 庭野日敬の世界とは
世阿弥は「却来」(きゃくらい)のために複式夢幻能を確立した。是風が非風を抱きこんでいくことが「却来」である。
私が立正佼成会のメンバーと仕事をするようになって数年ほどたったころ、『開祖さま』というビデオを構成演出してほしいという依頼があり、初めて開祖に出会うことになった。予想をはるかにこえて気持ちがよかった。やたらに愉快で屈託がない。激動と苦難の昭和を貫いて巨大な信仰教団をつくりあげた人物とはとうてい思えないほどおもしろい。秘書さんたちと話してみても「いつもそんな感じです」という返答だ。
ああ、この人の周囲には「却来」がおこっているのだと確信した。それなら教義や公式活動を追うよりも開祖のいきいきとした人間性を映像にしたほうがいいと判断して、テレビマンユニオンの諸君を選んでチームを組み、ビデオを仕上げた。
その後、開祖が亡くなられてしばらくすると、今度は庭野日敬開祖記念館をつくりたい、ついてはミュージアムの構成と監修をしてほしいという打診があった。このとき真っ先に浮かんだのは、開祖の人間性をなんとしてでも横溢させようということだった。開祖の人生はそのまま立正佼成会の活動記録そのものだから、メモリアルな事績をベースに展示構成をすればそれなりにわかりやすいものにはなるが、それだけではあの快活な笑い声が聞こえてこない。
私は準備メンバーに頼んで、洋服・ネクタイから鞄や杖まで、メモや筆のたぐいから机の上の小物や座布団まで、家族スナップから国の内外に出掛けたときの映像ドキュメントまで、ともかく開祖にまつわるものなら片っ端から集めて見せてほしいとねだり、それらが見えてきてから丹青社のディレクターとともに全体の割り振りを工夫するようにした。
在りし日の庭野日敬開祖の執務室
ミュージアムの重要性は、テーマにもとづいた世界を擬似的に再現することにあるのではない。来館者がその世界を親しく追体験できることにある。そのためには法華経や仏教の今日性を下敷きにしておくこと、等身大の開祖に登場してもらうこと、この二つが不可欠だった。こうして開祖記念館に、在りし日の庭野日敬開祖の気配と声と足音が行き来することになったのである。
開祖は好んで達磨大師を筆で描かれていた。何百枚と描いたのではないかと思う。達磨には「再来」伝説がある。いま、日本人は先駆者たちの「再来」を希わなくなっているようだが、私はそれが日本をつまらなくさせてきたと思っている。開祖記念館のそこかしこには幾多の「再来」がおこっていくはずである。ぜひとも開祖の風を孕む再来と、開祖がおこした却来の風とを、この記念館で感じていただきたい。
- 松岡正剛(まつおか・せいごう)
- 1944年、京都市生まれ。1971年工作舎設立、総合雑誌『遊』を創刊。87年編集工学研究所を設立。以降、情報文化と日本文化を重ねる研究開発プロジェクトに従事。2000年にインターネット上に「イシス編集学校」を開校するとともに、ブックナビゲーション「千夜千冊」の連載を開始、現在も更新中。2006年「立正佼成会 開祖記念館 庭野日敬の世界」監修。おもな著書は、『知の編集工学』『知の編集術』『多読術』『17歳のための世界と日本の見方』『日本流』『日本数寄』『山水思想』『日本という方法』『ルナティックス』『フラジャイル』『松岡正剛千夜千冊』(全7巻)『連塾―方法日本』(全3巻)『にほんとニッポン』『国家と「私」の行方』ほか多数。